道者たちの精進期間は格式によってそれぞれ違っていた。 本精進は4月8日から100日間。
湯道精進・合力精進・女精進(井田道者)は5月5日よりはじめて75日間の潔斎をおこなっている。
精進に入ると、この日より衣類はみな白衣を用い、食事道具も一切新しいものを使い、家族とは別火で物を食べている。 精進期間中は男女同きんを禁じ、
五辛(にんにく・らっきょう・ねぎ・ひる・にら)と魚鳥の食用禁止等 かなり厳しい潔斎がおこなわれていたものである。
登山の時期が迫った6月5日には道者たちが全員寄合って、おひねりを作ったり御神酒を竹筒に詰めること、その他登山の諸道具の準備をおこない、用意ができるとこれを、里宮へ持っていき、湯立神事をおこなってきよめることをしている。
さらに6月6日から13日まで里宮で礼拝行事がおこなわれているが、これを千度の拝といい、6月6日昼と12日の朝・昼・夕と6回で延べ673度の礼拝をおこなっている。
この間松久沢川という所で水垢離をとっている。
また登拝前に御嶽三十八座のうち山麓に所在する若宮・本社・牧尾・樽沢(アンバの滝、現在は牧尾ダム建設で水没)・白川・岩戸等の諸社を巡拝することもおこなわれていたものである。
登拝は6月14日朝、子ノ刻に、黒沢・王滝それぞれの里宮を出発して、黒沢の白川で水垢離をとり、飯の王子で昼食をとり、その後、扇ノ森・千本松・西ノ除・大江権現などの行場を奉幣しながら登り、
この日は大江権現(黒沢村の道者は湯権現)で一泊、翌15日は再び山内の行場を奉幣しながら、山頂の日ノ権現、王の権現を参拝して下山している。
当時は登山道もあってないようなもので、年一度の登拝は容易なことではなく、その上このような厳しい重潔斎をおこなっていたものであるから、神沢吐口が『翁草』に書いているように、登拝者の数はごくわずかなものであったことが知られる。
なお登拝できない者の代参といったことも、道者はおこなっていたもののようで、滝氏の記録の中に、代参の礼金として「金子壱両、外に扶持米三歩」を必要としたことが記されている。
登山の携行品として、小大麻袋・大大麻袋・杖・桧笠・菅みの・わりご弁当・たい松(十五たい)・わらじ(五足)・米一升五合・味噌少々をあげており、大麻袋を大小携行しているが、大小麻袋を「ぜん袋」ともいったとある。これは袈裟掛けに背負うようにで きている。
杖は椹木と書いてあるが、他のものには桧または椹とあり、どちらかを使ったようである。現在の金剛杖である。
わらじは五足用意したようであるが、『御嶽由来伝記』にはゴンゾワラジを用いたと書いてあり、薮などにひっかからない乳なしのワラジが用いられたようである。
「御嶽の信仰と登山の歴史」-生駒勘七著(第一法規) |